この考えは、以前から抱いていたものではなく、ほんと最近になってふと思うようになったもの。
きっかけは明確だ。故・今敏監督の「パクリの語法」という記事を読んでからである。
http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/530
2000年代から加速し始めたパクリ叩きの流れは2010年代に入って熾烈を極め、今やネットの世界では殺人者とほぼ同等の扱いを受ける始末。まあ、パクリという行為は時にパクラレ作品を強盗殺人するようなケースもあるので、あながち間違いとも言えない。
自分もクリエイターの端くれなもので、自分の作品を隅から隅まで丸ごとパクったような作品が現れれば気のすむまで棍棒で殴りつけたくなるし、事実そういう風に大手企業に作品をパクられながらも、個人という弱者ゆえに泣き寝入りせざるを得なかった人がたくさんいたはずだ。インターネットはこういう弱者の声を拾い上げ、強者の立場を濫用して極悪非道な行為を繰り返す悪人どもを名もなき裁判で断罪し続けた。
これによって救われた人は少なくないだろうし、私刑という響きに抵抗を感じながらも、必要悪として内心認めざるを得ない面は確かにある。文化的な自浄作用という肯定的な見方もできるし、インターネット時代の自由な創作環境を築くのに一役買っているのは間違いない。
ただ、最近はちょっと雲行きが怪しくなってきた。個人クリエイターがとても強い力を持ち始めたのだ。すると、名もなき彼らは個人を強者として認識し始める。抗いようのない強大な力に立ち向かうためだった銀の矢は、単純にパクリという行為そのものに向けられるようになった。
こうなるともう、正義がどうとかパクリの悪質さがどうとかそういう物差しじゃなくて、ムカつく奴かそうでないかで炎上度合いが変わったりする。私刑ですらない、私怨だ。
というところで、じゃあ、パクリという言葉について一度考えてみようか、というのがこの記事の趣旨である。
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