あなたが情報のるつぼで生き残るためのたった一つの方法。

物事の「本質」や「真理」について考えたことがあるだろうか。
目に見えないものを考えようとすると、宗教や哲学の話になりがちだが、実はもっと日常生活と近い所に、こういった概念は潜んでいる。
今日は、少し難しいけれど、そういう本質や真理を見抜いて、インターネットに溢れる数多の情報の波を乗り切っていく術のおはなし。


本質とは

ここに、一つの林檎がある。

ぼくらはこれを「リンゴ」だと認識するが、アメリカ人は「Apple」だと言い、フランス人は「Pomme」だと言う。皮が赤くて中身は黄色く、食べれば甘酸っぱい味がする。ジャムにしたりケーキに入れたり、薬にすることもできる。
ぼくらはリンゴの絵を見て同一の「リンゴ」を思い浮かべるだろう。では、そのリンゴとは実際、なんなのだろうか。言語が共通していないことは上に挙げたように確かだし、味や調理法はプロパティ(特性)に過ぎない。目に見える姿だろうか? それでさえ、色弱の人には正しい色を捉えられないし、リンゴを知らない人にとっては「ただの赤い果物」と絵の表現するモノが変質してしまう。

だが、リンゴは確かにそこにある。ぼくらはリンゴというものを認識する中で、無意識のうちに「リンゴ」というものの本質を理解し、それを脳の中に留め置いている。言語や姿は大切ではない。リンゴとは「こういう(今アナタが頭の中に思い浮かべた)もの」である。


あなたがプログラマならもう一つ、きっとより分かりやすい例がある。

x = x + 1;   // xに1を足す

あなたの友達が「そのコードは何?」と尋ねてきたら、あなたは「xに1を足す」と答えるだろう。もっと噛み砕いて、「xの次の値はx+1だ」と答えてもいい。間違えても、「エックスイコールエックスプラスワン」とは答えない。
しかし、それはコード上における「コメント」に過ぎない。あなたはこの一行のコードの本質を上手く言語化したかもしれないが、それは本質そのものではないのだ。あなたの友達はこのコードの挙動を知ることはできたかもしれないが、そのコードそのものについて知ることはできなかったのだ。
人間がモノの本質を相手に伝えようとして作り出すあらゆるコトバや絵や表現は、ソースコードにおけるコメントと同じようなものである。

エラい人たちの共通項?

本質の話は何も特定のモノに限ったことではない。
今やインターネットには数々の実績を残し読みや名声を欲しいままにしたエラい人たちのインタビューやらニュース記事やらが氾濫状態と言ってもいいほどあるのだが、彼らの言っていることを注意深く読み取っていくと、
「あれ? これはつまり、あの人の言っていたアレと同じことだよな」
と、どうもその裏側に不可思議な共通項を感じることがある。

  • 人事は尽くせるものじゃないし、結局肝心なものは運である。
  • 作りたいものを作ると売れない。片手間に作ったものが案外売れる。
  • 自分に嘘を付いてはいけない。
  • 他人と協働はすることは大切だが、依存しあってはいけない。
  • 結局好きでずっとやっていたらここまで来ていた。
  • モノを作るのは情熱と意志。

*1

彼らは経営者であったり、音楽家であったり、哲学者であったり、経済学者であったり、研究者であったり、エンジニアであったりするのだけど、どういうわけかその深いジャンルの溝を乗り越えて、いくつかのパターンに分かれた同じ考えに至っているのだ。もちろん、それを語る言葉は一人一人違うし、ある人はとても上手く言い表し、ある人は誤った表現で出してしまうこともある。しかし、その裏に潜む「何か」──すなわち、その本質は、きっと同じ形をしている。


この、生き方や事象における本質、これを真理と呼びたいと思う。*2

真理の器

人は誰しも真理の器を持つ。
生まれた時は空っぽだ。だが、すぐに一つのことに気付くだろう。お腹が空いたり、うんこを漏らしたり、寂しくなったり、そうやって困ったときは大声で泣き叫べば、何だかよくわからない存在が、あなたの抱えた問題を解決してくれるのだ。

あなたはそのうち、それが母親と呼ばれるものだと気付く。たまにそれは父親かもしれないし、親戚かもしれないが、あなたは自分というシステムの中に、反射的に動くそういう存在がいることに気付いてくる。

ところが、二歳に差し掛かり、あなたはとんでもないことを理解する。この母親は、実は自分ではないのだ。自分というシステムとは異なる、別個の存在なのだ。これが、自我の芽生え。魔の二歳、第一次反抗期である。あなたの中の真理は常に形を変え、時にはあなたを傷つけ、しかしあなたが次の段階に進むための手助けをしてくれるようになる。


そうして、人はみな真理の器を満たすための旅に出る。真理を獲得する手段はシンプルだ。一に自分の経験、二に他人との関わりの中でもたらされた知恵である。
あなたはその手を直火で5秒以上あぶったことはきっとないが、それがとんでもなく熱いことだと知っている。何故なら、あなたは火であぶられた熱いモノに触れて火傷したことがあるし、教科書には火の温度が1000度以上という想像を絶するものであることが書いてあるからだ。一方で、指先を一瞬火にくぐらせても大丈夫だし、炎をコントロールすれば口から吐き出したり中を潜ったりすることもできる。そうやって、あなたの真理は少しずつ確固たるものになっていく*3


いわゆる自己啓発本は世に溢れるほどあるし、自分の経営哲学を惜しげもなく教えてくれる*4人は多いが、それだけで真理を会得することは困難だ。言語は本質から飛び出た一部分でしかないし、それを自分のものにするためには「同意する」、つまり自分の経験と照らし合わせて、彼らの言葉が「実際にはどういうモノであるか」を考える必要がある。

一方で、その真理の片隅をあなたが既に抱いているのなら、これらの外部知識は極めて有用なものになる。それはきっとあなたの中にあったもやっとしたものを整理し、適格な言葉で表現する手段を提供し、他人と物事の本質を共有する手助けをしてくれるだろう。良著というのは、古今東西そういうものである。

行き着く果てに

そうして、様々な真理を会得して、あなたは実際に現実世界で何を得るのだろうか。
真理や本質というものは、それが見えてるからといって、あなたに莫大な利益をもたらしたりはしない。偉い人の格言を真似したからといって、あなたが偉い人になれるとは限らない。


だが、それらの智慧は、あなたが行き詰ったとき、あなたが伸び悩んだとき、あなたが重大な決断を迫られたとき、その先に踏み出す一歩を与えてくれる。トイレに張ってある格言のように、辛いときにはあなたを励まし、進むときにはその道しるべとなる、唯一無二の見えない座右の銘。それが、真理である。


あなたはそれを創作に生かしてもいいし、マーケティングに応用してもいいし、誰か大きな悩みを抱える友人に寄り添うときに用いてもいい。或いは哲学的な部分を追及して、一なる「究極の真理」を探してもいい。
人事は尽くせないものだから、どこかで作品に線引きをする。あまり気合を入れなかったプロダクトがウケたのは、それこそが自分の「作れる」モノだからだ。この道を、好きだから、歩み続けたい。
気張ることはない、きっとあなたも今まで無意識のうちにやってきたことだ。そして一つの真理は別の真理を導いてくれる。時には新たな事実が、今までの真理をがらりと変えてしまうこともあるだろう。でも、それでいい。真理の器を満たす混沌はあなたの伸び代だし、洗練され整然としたは才能や努力以上の武器となる。

情報のるつぼより。

インターネットにはあらゆる情報が溢れている。
正しいこともあるし、間違っていることもある。上手な表現もあるし、下手な表現もある。腹立たしいことが書かれているかもしれないし、耳障りのよい啓発の言葉が羅列されているかもしれない。

でも、あなたはその中からきっと本質を見つけ出すことができる。誰かと誰かが同じことを言っていたなら、その裏に何かが潜んでいるかもしれない。何の後ろ盾もない個人ブログの一言に深く感銘を受けたなら、それはあなたの記憶の底に眠る真理の欠片かもしれない。或いは、自分の輝かしい栄光を述べてエラそうなことを言っている誰かが、実は空っぽの中身をしているかもしれない。

それは、色んな記事を注意深く、様々な視点から読み込まなければ、決して見つけられないことである。あらゆる記事を思想の偏りや人物像だけを見て、とるに足らないものだと切り捨てるのは容易だろうし、その方がもっともらしい振る舞いができる。でもそういう安易でニヒリスティックな思想は、その実何も生産することはない。


インターネットの情報はこれからもあらゆる方面に増えていくし、誰かがフィルタリングしてくれることもきっとない。でも、それでいいのだ。いくつかは表現も豊かで役に立つ教訓が幾つも書かれている素晴らしい記事かもしれないし、いくつかは表現は稚拙だし何ら中身もとりとめもないクソ記事かもしれないが、そんな判別は SNS にでも任せておけばいい。
あらゆる記事には有益な情報と無益な情報が含まれている。その線引きをするのは記事そのものや他の誰かではなく、あなた自身なのだ。10年後の自分を形作るもの、その真理を見つけられるかどうかは、あなた次第である。

*1:当然、まだまだある。

*2:冷めた目で見ればこれらはみな一哲学に過ぎないのだが、もしあなたが幸運にも機会に恵まれて、彼らのうち一人から直接話を聞くことができたなら、彼らの持つ圧倒的なパワーと自分の信条に対する強い自信が、哲学なんていう生易しい言葉の域を超えていることを実感できるだろう。それは、彼らにとっては実学ですらあると言っていい。

*3:この過程で、真理は到底言語で言い表せないものになっていく

*4:ま、多くの場合ご高説を垂れてるだけなんだけども