風立ちぬ - ピラミッドのある世界を望んだ者達

風立ちぬという映画がある。アニメ映画界の巨匠・宮崎駿氏の引退作である。
大人から子供まで、万人の楽しめるエンターテイメント作品を作ってきたジブリだが、今年はその役目を「かぐや姫の物語」に譲った*1らしい。作品は全篇に渡りやや小難しく、子供を切り捨てたというほどではないものの、明らかにこれまでのものと比べて大人向きである。
して、この作品。見た人の評価が真っ二つに分かれる。「凄く面白かった、最高傑作だ」という人もいれば、「全く面白いと思わなかった」という人もいる。両極端だ。
ぼくは前者の人間である。ただし、見終わった直後は、面白いとは到底感じなかった。ラピュタのように息の詰まる冒険活劇もなかったし、終わり方もとてもあっさりしていた。しかし不思議なことに、スクリーンに映し出された一つ一つのシーンは強く心の中に刻まれ、やがて宮崎駿が映画に込めた幾多のメッセージがくっきりと浮かび上がってきたのである。
この記事には多少のネタバレが含まれているが、これから風立ちぬを観劇しようと思っている人の妨げにはならないよう注意している。むしろ、この記事を読んで少しでも気になったら、是非とも映画館に足を運んでみてほしい。

二人の宮崎駿

この作品には、二人の宮崎駿が登場する。一人は言わずもがな、主人公自身。そしてもう一人は、カプローニという人物。主人公である二郎が夢の中で出会う、イタリアの飛行機技師だ。
主人公・二郎は、その生き方に宮崎駿と同じ矛盾を抱えることになる。彼は、飛行機が好きだ。しかし、その飛行機は殺戮の兵器として使われる宿命を持つ。彼は人を殺すための兵器を創りたいのではない。ただ美しい夢を追い求めたいだけなのだ。
この類の矛盾は、創作をする人間なら(或いは、そうではない人間も)誰しもが持っている矛盾だ。例えば、ぼくはゲームを作る。作ったゲームを大勢の人に、老若男女に遊んで欲しい。しかしその一方で、幼い子供たちが外に出ず携帯ゲームに夢中になることを良しとは思っていない。ゲームを遊んで貰いたい一方で、ゲームが彼らの生活に食い込むことを望んでいない。或いは、貴方がもし何らかの創作活動に携わっていたなら、「生みの苦しみ」が齎す絶望と、それでもなお創作をやめない矛盾を知っていることだろう。

物を「創り出す」ということは、世界の均衡を乱す行為だ。皆が仲良く平和に暮らしていた真っ平らな地平線に、民族の象徴たるピラミッドを建ててしまう行為なのだ。生物が生存し繁栄し子孫を残す上で、それは全く不要なものである。それどころか、それは平等な世界に終止符を打ち、疫病と苦痛と貧富の差を生み出し、新たな秩序の元に環境を滅茶苦茶にするだろう。
それでも、彼はピラミッドのある世界を選んだ。ぼくもそれを望んだ。宮崎駿も、カプローニもそれを選択した。人類はあなぐらでの平穏な生活を捨て、今日までそれを選び続けてきた。種族として生存する本能と、それに真っ向から矛盾する夢を抱いて、人類は繁栄し続けてきた。

創造的人生の持ち時間は、10年間である

夢を追い続けた先人として二郎にアドバイスを与えるカプローニは、現在の宮崎駿だ。彼の台詞にこんなものがある。「創造的人生の持ち時間は、10年間だ。君の10年を力を尽くして生きなさい」インタビューで宮崎駿はこれを自分自身の言葉だと補足した。
ピラミッドのある世界を選択した二郎は、突然余命が残り10年であると宣告される。それが、世界の秩序を乱した者に課せられた宿命だ。10年間。あまりにも短い。勿論、それを過ぎてもモノを作っている人は沢山いるし、作家人生が10年目を境にぱったりを途絶えてしまうことはないだろう。それでも、宮崎駿は10年間とはっきり言い切った。数多の創作を見続けた彼が、その人生の中で悟った大きな真実なのだろう。もっとも、我々がそれを理解するのはこの10年を使い果たし、更に時を経てのことだろうが。
しかしその短すぎる10年間という余命も、二郎にとっては障害にはならない。彼は老後のための富や名声を蓄えるためではなく、美しい夢を追うためだけに飛行機を創ってきたのだ。たとえそのために自らの命を失おうが、大した痛手ではない。
幸運なことに、二郎は先人カプローニの偉大なる死(引退飛行)を目にすることができた。幸運なことに、我々は先人宮崎駿の引退上映を目にすることができた。その姿から二郎が学んだことは、きっと宮崎駿が我々に学んでほしいと願っていることである。

生きることは、戦うこと

風立ちぬ、いざ生きめやも』全体のテーマである、この詩。ポスターにも大きく、『生きねば。』と書かれている。
生きるとはなんだろうか。それは、衣食住を満たし寿命を食い潰すことではないはずだ。ローゼンメイデンという漫画の言葉を借りれば、「生きることは、戦うこと」である。自分の使命に殉じて、精一杯力を尽くすことである。
二郎は自分の夢を追うため、彼の相方である菜穂子にとっては、二郎の夢を支え、共に追うため。彼らの命は、驚くほど短い。中盤の重要なシーンで二郎が告げる、「私達には時間がありません。覚悟はしています」という言葉は、二人の間柄の話ではないのだ。だから二郎は煙草も吸う。だから菜穂子は高山病院を降りる。一日にたった数時間、僅かな逢瀬であろうとも、右手にペンと左手に菜穂子の白い手を握るその瞬間こそが、二人にとって「生きる」ということなのである。

人類は、ピラミッドのある世界を望んでしまった。そうして世界には文明が生まれた。多くの犠牲と代償と美しいガラクタが波打つように歴史の狭間でぶつかり合い、人類の文明は形作られていった。人殺しの兵器として生まれた飛行機は、今日も大勢の夢を乗せて空を舞っている。
風が吹いている。いざ、「生き」ねばならない。

*1:かぐや姫も見てきたが、こっちも特に子供向けというわけでは無さそうだった