ソーシャルゲームが嫌いなワケ

ぼくはソーシャルゲーム*1のことを良く思ってない。でも、漠然とそう思いつつその理由が分からない人は少なからずいるようで、それ故に黙認してる人も一定数いるようだ。
とりあえず自分の考えを整理する意味も込めて、見解を述べたいと思う。あくまで個人的な意見なので留意してくださるよう。

クソゲーなのか?

2chなどではソーシャルゲームクソゲーなのでゲームじゃない、なのに儲けてるのはけしからん、とか大体そんな論調らしい。ツイッターのフォロワーには実際にプレイしてクソゲーだという感想を持つ人もいる。
が、ぼくはソーシャルゲームは面白いと思う。何故なら、モ●ゲーやG●EEのゲームこそやっていないが、その前身である(と思われる)CGIブラウザゲーや、亜種であるトラビアン・MobStrikeなどにぼくはハマったことがあるからだ。
Script of SagaIIなんてものは一日2,3回探索できたり他のプレイヤーをぶちのめしたり商品を買ったりするくらいしかやることがないのだが、嬉々として一年くらい遊んでいたし、トラビアンには5000円であるが突っ込んだ記憶がある。
結局クソゲーかどうかはその人の感性か好みによるものだと思うので、ここではその議論をしない。ぼくがソーシャルゲームを嫌う理由も、別にある。

プレイヤー的視点

三つの理由のうち最初の一つは、プレイヤー的な視点からの理由である。
ソーシャルゲームでは、「課金*2」がゲームシステムの根幹に関わってくる。当然あちらは商売なので、いかにプレイヤーに課金させるかを勝負所とし、あの手この手で仕掛けてくるわけだ。
課金とはつまり現実世界のお金をゲームの無形物に支払うことにより対価を得る行為であるが、それはつまりゲームというエンターテイメントそのものに関係が無い「外部要素」をゲームに取り入れているということである。
ぼくは、ゲームはそれ単体で完結しているべきだと思っている。
早い話が、外部要素とは環境に置き換えられる。『イケメンじゃないとランキングに載れないゲーム』は、果たして面白いだろうか。『親が医者じゃないと相手に勝てないゲーム』や『小学校の頃沢山賞を貰った人が特別なアイテムをもらえるゲーム』はユーザに均等な機会を与えているだろうか。
エンターテイメントとは、もっと平等で不可侵なものであるべきだと思う。何故現実世界のしがらみを仮想空間に持ち込まねばならないのか。そこに得体の知れない気持ち悪さを感じてる人間もきっといると思う。

社会的視点

ケシという植物がある。果実から溢れ出る乳液を集めて乾燥させると、アヘンという薬物を精製することが出来る。アヘン戦争という言葉にもあるように、多くの争いを歴史に刻んできた「麻薬」だ。
ケシの栽培は、他の食物などを栽培する一般的な農業に比べて莫大な富を生む。アヘンが高値で取引されるからだ。しかし、ケシは異常に強い繁殖力を持ち、一旦ケシを植えてしまえば二度とその土地は他の作物を育てることが出来ない。アヘンの取引が禁止されれば、後に残るのは荒地に咲く不気味な白い花畑。禁止されなくとも、一旦落ちた食物の生産力は容易に回復することはない。*3
中毒性という観点から麻薬とゲームを同一視する論調は昔からあったが、産業全体を見てもソーシャルゲームはそれと似ている。ソーシャルゲームはとても払いが良い。最近の不振に喘いでいるコンシューマ業界にとっては、またとない食い扶持だろう。
しかし、ソーシャルゲームのユーザたちは、いずれその一部がコアゲーマーとなり、コンシューマゲームのユーザとなっていくだろう。或いは沢山の業者が参入して値崩れを起こすか、政府からシステムを規制されて今ほど稼げなくなるだろう。その時、業界がこぞってコンシューマの開発者を削ぎ落とし、ソーシャルゲームに特化した経営をしていたらどうなるか。
ソーシャルゲームというのは確かにゲームの一形態としては「アリ」だ。しかし、ゲームの「あるべき姿」でも「未来像」でも無い。ソーシャルビジネスが拡大化することより、そうやって「コンシューマは古い、今はソーシャル」と偏った思想を持つ人が増えていることに、常々危機感を覚えている。

開発者的視点

最後に、開発者としてのプライドがある。
課金システムをゲームシステムの根幹に用いるということは、課金を行わなければゲームの全ての面白さが解禁されないということである。事実、強烈な行動制限をし、課金することで色んな面白さが開けていく仕組みのゲームが多数存在する。
課金率を10%だとすると*4、10万人遊んだとしてもそのゲームの面白い部分に踏み込んでいるのはたった1万人で、残りの9万人は本来の面白さを知らずに去っていく。課金した1万人も、そのゲームの最も面白い部分に到達できる程度の課金をしていないプレイヤーは永遠にゲームを隅々まで遊びつくすことが出来ない。与えられたエンターテイメントを最大限に遊べているのはたった数千人なのだ。こんな状況でプレイ人数何十万と言われても釈然としない。
ぼくは、フリーゲームでも、有料頒布のゲームでも、ひとたびゲームの完成版を手に取ったならとことん遊んでもらいたい。100%クリアしろと言っているのではない。せめてこちらが最も面白い!と思っているポイントまでは到達して欲しいのだ。そこまでプレイヤーを引っ張っていくのは開発者のウデの見せ所なのだが、他ならぬ開発者自身がその可能性を閉ざしてしまうのは如何なものかと思う。
ゲームは時に、たった数時間遊んだだけで永遠にその人の心に残り続け、名作として何年もその名を称えられることがある。そういうゲームをいつか作ってみたい自分にとって、課金解放システムはあまりにも邪道だった。

まとめ

以上三つの理由を述べた。正直な所、ぼくはソーシャルゲームをそこまで憎んで無いし、ソーシャルゲームのソの字を言った奴を問答無用でぶっ叩くような過激派でもない。ソーシャルゲームが莫大な富を得ていることに嫉妬してもいない*5。ただ、上の三つの理由や語りきれない幾つかの細かい理由を総合して、なんとなく嫌悪感を感じている。そしてきっと、ソーシャルゲームを作ることは無い。
いや、もしかしたらあるかもしれない。その時は開き直って今のソーシャルゲームが赤子のように見えるくらいのおぞましい集金システムを創り上げてることだろう。きっと。

*1:定義はさておき、ここでいうソーシャルゲームとは所謂モ●ゲーやG●EEのゲームのこと

*2:厳密に言えば納金

*3:今のアフガニスタンの惨状がその結末を物語っている

*4:ゲームによって相当ばらつきはあるが

*5:まあ莫大な富を得て調子乗ってるヤツらはイラッと来るけどね